阪神・淡路大震災から20年/鷲崎健さんらが立ち上げたKOBEフラワーテントが蘇る

こんばんは。
少し過ぎてしまいましたが、1995年1月17日から20年。阪神・淡路大震災大震災から20年が経ちました。
私が言うのも無責任な気もしてしまうのですが、関西中国地方は大方”復興”してきたのではないでしょうか。

2011年3月11日には東北地方太平洋沖地震が発生。
早くも4年が経ち、交通機関等はようやく復帰してきた気がしますが、
被災地には津波の爪痕を残したままの場所もあり、”復興”にはまだまだ時間がかかると思われます。
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↑JR八戸線全線運転再開時のホームに掲げられた垂れ幕
↓三陸鉄道北リアス線の、被害が一番甚大であった箇所。車掌の方曰く本来海が見える場所ではなかったそうです。
無題

さて、阪神・淡路大震災から20年が経ち、当時学生だった鷲崎健さんらの立ち上げたフラワーテントについて、あまり多くの情報がないので記録、ということで記事にしておきます。

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以下は震災から5年後の2000年に毎日新聞に掲載された記事です。
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○[きずなずっと]めぐる春に 阪神大震災5年 歌で悲惨さ笑い飛ばす (2000年1月7日社会面)

 震災1カ月後の1995年2月16日、神戸市役所南側の公園「東遊園地」で、屋根にシートを張っただけのステージ「フラワーテント」が始まった。公園使用期限の1カ月の間連日、午後4時から8時までバンド演奏や演劇、狂言、落語が繰り広げられた。

 桑名正博、山本リンダらプロから、「寂しいからカラオケを歌わせてくれ」という被災老人まで出演者は260人。集まった聴衆は延べ6000人に上った。スタッフの1人で自らステージにも立ち、被災者の笑いをさらったのが、当時大阪芸術大3年の鷲崎健さん(26)だった。

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 鷲崎さんは両親と住む神戸市東灘区のマンションが全壊した。避難した小学校では、1日中横になったり、気力なく酒を飲むばかりの被災者を目の当たりにした。鷲崎さん自身、崩れた町並みに何も感じないほど「感覚がまひ」していた。

 音楽好きの鷲崎さんは震災をテーマに歌作りを始めた。「シャレにならない悲惨な状況では、もう笑い飛ばすしかないと思った。深刻な歌、がんばろうと励ます歌は作る気がしなかった」

 “村山首相も来てみたが、ちょいと これまたお呼びでない”

 ギターを手にオリジナル曲「震災音頭」を恐る恐る披露すると、聴衆から手拍子がわき、「よ、日本一」の掛け声が上がった。「みんな意外に強いなあ」と感じた。曲は次々と生まれた。「震災のタンゴ」では、「上を向けば、ああビルがない 下を向けば、ああ道がない」と歌い、聴衆の被災者は腹を立てるのを通り越し、笑い転げた。

 フラワーテントを訪れたある中年男性は家がつぶれ妻を亡くし、死に場所を求めて歩き回っていたという。だがステージの熱気に触れ、「死ぬ気がしなくなった」と語った。

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 鷲崎さんは震災の翌年、大学を卒業し上京。音楽スタジオでアルバイトしながら曲作りし、ライブハウスでコンサートを続ける。「フラワーテントで身近な人とつながりができ、自分も元気になれた。今度は、遠くの見知らぬ人も元気にできるような曲を作りたい」と語る。

 今月16日には、東京・新宿の都庁都民広場で開かれる防災イベントで、数年ぶりに当時の震災の歌を歌う。譜面は残っておらず、記憶だけが頼り。「東京の人には見向きもされないでしょう。でも何人か立ち止まったら、勝ち、かな」とひそかに心期している。【重長聡】

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今アニメ業界に携わる方々、アニメファンの方々の中では有名だろうと思います、鷲崎健さん。
ご本人もラジオ等で、住んでいた自宅が全壊した、一ヶ月テントぐらしだった等とおっしゃられています。

さて、そんなフラワーテントですが、震災から20年、次の復興のステージ、東北へ向け、20年ぶりに蘇るそうです。

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いつ何時、震災が発生するかは私達には知る由もありません。
しかし既に起こってしまったものに対してはきっと出来ることが多かれ少なかれあるはずです。
頑張ろう、日本!

「被災者による被災者のためのステージ」ということで
2015年2月11日から神戸市中央区の東遊園地にて「フラワーテント2015」が開催されます。

お時間のある方は足を運んでみてはいかがでしょうか。それでは。